たまには溺れてみましょうか
幼い頃、僕の世界を180度ひっくり返して光の中に消えてしまった人。 時間にしてもそれほど長く一緒にいた訳じゃないのに、彼女ときたらやることなす事何もかも突飛で、そのたびに幼い僕は驚いていた。 自分より年上の人なのに大丈夫かとハラハラしたり、かと思えば彼女の考えにハッとさせられたり。 にわか弟子としてくっついて歩いているうちに目が離せなくなったのはすぐだった。 気が付けばいつも姿を探して、彼女の側に彼女に似合いな年頃の男がいれば気分が悪くなって割ってはいった事もあった。 その気持ちは子どもながら何なのか気づいていたよ。 いや、むしろ子どもだったからこそ、あんなに鮮やかに焼き付いてしまったのかもしれないね。 光の中へ消えてしまった君を10年も想い続ける原動力になるぐらいには。 そう、君が消えて現れるまで10年。 その間、君は常に僕の心のどこかにいたんだ。 君ならどう言うだろう、どう考えるだろう、どんな風に笑うだろう、怒るだろう・・・・。 そんな風に思っていたわけだけど・・・・一つ、忘れていた事があったよ。 「―― 君って、相当うかつだったよね、花。」 鏡を見なくても苦笑を浮かべていると自覚できる僕は思わずそう呟いていた。 ちなみに返事はない。 いや、あるにはあるけど・・・・。 「・・・・・・・・・すー・・・・・」 聞いているだけで和みそうな寝息に全く和めない僕は深々とため息を一つ。 そりゃ、ここのところ忙しかったのは分かってるよ? 君が少し寝不足気味なのは、先に休んでいいよって言ってるのに、僕の仕事を手伝ってくれていたからだって事も。 でも、それでも。 (曲がりなりにも恋人の前で、そんな無防備なんて食べられても文句言えないよ?) 思わず心の中で呟いた言葉は、鉄壁の僕の理性にもちょっとヒビを入れて、少し後悔した。 せめていつかのように、机に突っ伏してくれていれば寝顔も半分しか見えないで済むのに ―― いや、可愛い事には違いないけど。 でもそれなら手の出し方だって限られる。 なのに、目の前の花ときたら、長いすに丸まる猫みたいになってて。 茶の髪が縁取る頬も、閉じられた瞼も、和やかな寝息を零す唇もみんな丸見えなんだよ。 「・・・・はあ。」 何度目になるかわからないため息で邪な考えを散らそうとするけど、そんなのはほとんど無駄。 (・・・・少し、だけ。) 髪が邪魔そうだから、とか言い訳をつけて手を伸ばす。 指先が花の髪に触れる直前、僕の手がピタリと止まった。 ―― 少しだけですむのか、と問う声がして。 冗談めかしてなら触れられた。 いつか元の世界に返すんだと自分を戒めて、彼女に余計な後悔をのこさないようにきちんと距離を測って。 それなのに、あんなに必死に帰そうとしていた僕に、君は側にいるといって残ってしまった。 (・・・・どうしたらいいか、わからないんだ。) 諦めて、一番大事な宝物みたいにしまっておくつもりだった想いだから、馬鹿みたいに大きくなってしまったそれ。 ただでさえ10年越しの片思いだよ? 触れる事を許される関係になっても、触れてしまったらどうなるかわからないじゃないか。 今にも花に触れようとしていた手を、僕は強く握った。 (せめて意識のある時にしよう。) ―― 意識がある時だって同じくせに。 心のどこかで聞こえた声は無視して、僕は手を引こうとして・・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (・・・・あれ?) 気が付いた。 さっきまで定期的に繰り返されていたはずの寝息が聞こえなくなっている事に。 「・・・・」 無言で数秒見下ろしていると、もそっと花が居心地悪そうに動く。 そう、『居心地悪そう』に。 「・・・・・・・・・・・・・・・」 僕は心から今、花が目を瞑っていてくれることに感謝した。 ・・・・今、絶対に僕はだらしない顔をしてるに違いないから。 だって、これは・・・・ねえ? (反則でしょ。) 一瞬、誰かの入れ知恵かと思ったけど、こんな可愛い策はきっと僕の弟子のものだと思い直した。 ああ、ダメだ。 口元が緩む。 (ねえ、花?) その、寝ているはずなのに段々赤くなってきた頬まで策の内なら、君も大した策士になったものだよね。 もちろん、僕以外には使わせないけど。 こっそりとそんな風に心の中で舌を出して。 ―― 躊躇っていた、勝手に作っていた境界線を飛び越える。 「花」 今度はわかりやすく呼びかける声に、愛しさが滲んだ。 ぴくっと跳ねる肩が少し恥ずかしくて、僕はわざと悪戯っぽく言う。 「僕は弟子に狸寝入りなんて策を授けた覚えはないけど、教えてくれるの?お師匠様?」 「え!?ちっ――!?」 驚いてぱかっと開いた目と距離を詰めて。 初めて重ねた唇の温かさから、僕は愛する軍師の策に溺れた。 〜 終 〜 |